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島崎藤村 犬 ①


 此節私はよく行く小さな洋食屋がある。あそこの鯛たひちり、こゝの蜆汁しゞみじる、といふ風によく猟あさつて歩いた私は大きな飲食店などにも飽き果てゝ、その薄汚い町中の洋食屋に我儘わがまゝの言へる隠れ家を見つけて置いた。青く塗つた窓際には夏からあるレエスの色の褪さめたのが掛つて居る。十二月らしい光線は溝板どぶいたの外の方から射し入つて、汚点しみの着いた白い布の掛つた食卓の上を照して居る。そこに私は下駄穿げたばきのまゝ腰掛けた。
 一生のさかりといふべき私の三十代は数日のうちに尽きようとして居る。何となく静止じつとして居られないやうな気がする。私は厭いとはしい日のみ続いた斯の一年を忘れるといふよりも、三十歳の終りのしかも誕生にあたる日に、用事ありげな人達が窓の外を往つたり来たりする寒い年の暮の空気の中で、独り半生の悔恨に耽らうとした。私は今日けふまで逢ひ過ぎるほど逢つたいろ/\な男や女の顔を見るにも堪へない。さうかと言つて、斯この洋食屋から半町とない大川の水が鉄橋の下にある石の柱の方へ渦巻き流れて行くその岸の引き入れられるやうな眺めを見るにも堪へない。眼前めのまへにあるソースや辛からしの入物いれものだの、ごちや/\置ならべた洋酒の瓶びんだの、壁紙で貼りつめた壁だの、その壁にかゝる粗末の額、ビイルの広告などは、反つて私の身を置く場所に適ふさはしかつた。

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